Vol.112
2024年12月号
埼玉会館 |
12月17日「バッハ・コレギウム・ジャパン ヘンデル《メサイア》」公演に先駆け、11月18日に開催された「鈴木雅明による作品解説レクチャー」。時代を超えて愛されるこの作品について、熱のこもったレクチャーが繰り広げられました。いくつかのトピックについてご紹介いたします。
【バッハ・コレギウム・ジャパンと《メサイア》】
《メサイア》はヘンデルの最も有名な作品。バッハ・コレギウム・ジャパンは2001年から毎年サントリーホールで演奏するほか、彩の国さいたま芸術劇場や他の会場でもたびたび演奏しています。
最初は、毎年演奏しているとメンバーも飽きてしまうのでは?と思ったのですが、決して飽きることなく今に至っています。楽しい、素晴らしい曲。そしてただ楽しいだけではない奥深い作品であることがわかってきました。
【ロンドンへ渡ったヘンデル】
ヘンデルはバッハと同い年の作曲家。ヘンデルは1685年2月23日にドイツのハレ、バッハは同年3月31日にドイツのアイゼナハという町に生まれました。バッハとは何かとよく比較されますが、二人はそれぞれ同じような時期に故郷を離れます。その行先が対照的で、バッハが北ドイツに向かったのに対し、ヘンデルはイタリアへ向かいます。イタリアで充実した時を過ごしたヘンデルはその後ロンドンへ。ヘンデルはロンドンへ何人かの歌手を連れて行き、オペラの分野で大成功をおさめます。1730年代はオペラの時代でした。
【オペラからオラトリオへ】
ところがその後ロンドンではオペラが衰退していき、そんな中、ヘンデルはオラトリオを書くようになっていきます。オラトリオの特徴は、「合唱」。オペラでは、物語を進めるのはソリストであって、大規模な合唱は出てこないのですが、オラトリオは合唱が重要な役割を担い、ソロと合唱を繋げて物語が綴られます。ヘンデルにとっても新しいことでありました。
【ジェネンスとの出会い】
《メサイア》の台本を書いたジェネンス。芸術の庇護者であり、コレクター、聖書やあらゆる文学に通じていて、文筆家かつ詩人として活躍し、名声を得ていた文化人で、ヘンデルのために色々な英語による台本を提供しています。こういう人がいなければヘンデルはメサイアを書くこともなかったし、オラトリオの分野で重要な活躍をすることもなかったでしょう。彼の存在はとても大きいのです。
【《メサイア》の作曲】
ジェネンスがメサイアの台本をヘンデルに渡したのは、1740年。彼はなかなかメサイアの作曲に着手しませんでしたが、1741年の8月に書き始めてからは、9月にかけてのとても短い間に完成させています。
序曲の右下に「8月22日」という書き入れがあり、第1部の終わりには「8月28日」、第2部の終わりに「9月6日」、そして第3部の終わりに「9月12日フィーネ・ディ・オラトリオ」との書き込みがあります。今残っている自筆譜は一部を除き、ほとんどが作曲したときの「作曲譜」なので書き直しも多く、作曲の過程を知ることができます。例えば第36曲の楽譜を見ると、どんな速さで書いていったかがわかります。その筆致が音楽の内容と見事に合致しているのです。
【《メサイア》の初演】
1742年の春にダブリンで、その後1743年3月にロンドンで初演されました。「メサイア」とはヘブライ語で救世主キリストを表す言葉で、作品のタイトルとして掲げるにはあまりにも巨大な名称であったため、予告の際には「新しい宗教オラトリオ」とされました。当時宗教曲を歌うのは聖歌隊や教会のメンバーとされていたため、オペラ歌手が宗教曲を歌ったことなどが批判の対象になったと言われています。しかしながら、結果として《メサイア》は1742年からヘンデルが亡くなる1759年までのあいだに実に36回も演奏され、彼のオラトリオの中で最も成功したオラトリオになりました。ヘンデルの生前から成功したオラトリオですが、亡くなったあとも今にいたるまでずっと愛されている作品です。
【《メサイア》の特徴】
〇テクスト:メサイアのテクストは、始めから終わりまですべて聖書の言葉でできています。ジェネンスの言葉はなく、すべて聖書からジェネンスがピックアップして構成しています。そして、基本的には旧約聖書の引用で綴られています。ここが、マタイやヨハネの受難曲と決定的に違うところです。
〇他の作品からの借用:この時代、他の作品からの借用はよくあることで、珍しいことではないのですが、ヘンデルは借用がとても見事でした。[いくつかの実例を紹介]恐らくイタリア時代に作曲したと思われる、世俗的な、恋愛を扱ったソプラノの二重唱を巧みに合唱にアレンジし、メサイアに取り入れています。
〇受難曲の影響:オラトリオでは、基本的にどのパートがどの役を歌うという風に役割が定められていませんが、第2部冒頭の受難の場面では、受難曲のように、例外的に合唱が群衆の役割を担っています。
【異稿について】
なにしろ36回も演奏しているので、そのときの歌手の都合によって曲の調性を変えるなど、実にフレキシブル。バッハは1回もそのようなことをしていないのが対照的です。自筆譜(=作曲譜)のほか、ダブリン初演版、ロンドン初演版、1750年代に演奏したときの版、孤児養育院に献呈した版……と様々な版がありますが、ソリストが4人(ソプラノ・アルト・テノール・バス)だったのは1753年の時だけで、ほかはソリスト5人や6人の版が普通でした。ソリストの編成や調性が毎回毎回変化しているだけでなく、ソロのパートや拍子が変更されている箇所もあり、とても興味深いことです。[いくつかの実例を紹介]
※今回は1753年のソリスト4人の版で演奏されます。
【演奏上の問題点について】
〇ステージ上の配置:ヘンデルはこの作品をどんなふうに演奏したのでしょうか。1790年代に描かれた絵画などからも、オルガニスト含め演奏家全員がお客様に背を向けて演奏していたことが想像できます。19世紀になっても、今日私達が思うような配置は決して一般的ではないのです。オーケストラの前に合唱団が配置されることもよくありました。
〇楽器編成:自筆譜には弦楽器と合唱、トランペットとティンパニは書かれているけれども、オーボエとファゴットのパートはどこにも書かれていません。しかし今日、オーボエとファゴットを入れることは自明のことになっています。それは、筆写者(コピイスト)がスコアに書いているから。ヘンデルの意図ではなかった可能性があるのです。
それから、コンティヌオ(通奏低音)の楽器編成とはどの作曲家においてもいつも疑問が残り、特定するのが難しいのですが、《メサイア》の場合においても、オルガンとチェンバロがあるのはわかっていますが、そのほかの編成はわかっていません。
〇調律法:今や知ることは難しいですが、様々伝えられている状況を考えると、ヘンデルは3度の音程がピュア(純正)な「ミーントーン」という古風な調律にも親しんでいたことが推測できます。《メサイア》で使われている調性を見てみると、「ミーントーン」やそれに近い調律での演奏が可能だったのでは? 全く証明はできませんが……。
〇演奏の省略について:毎年の「藝大のメサイア」は50年も続いていますが、基本的に全曲演奏はしていません。私が演奏した時に全曲やったけれども「長い」と言われました。アメリカで演奏する際も、私はいつも全曲演奏を主張していますが、「アメリカでは全曲演奏することは、ない」と言われます。2時間30分程度の演奏時間は、バッハのマタイ受難曲に比べても短いですし、テクストからいっても無駄な楽章は一つもないと考えています。
※今回は全曲演奏いたします。公演時間は休憩を含め約3時間を予定しています。
ほかにも、ここには書き切れない、興味深いお話がたくさんありました。世界中に招かれ演奏する鈴木氏だからこその実感のこもったお話や、実際に音源や自筆譜の画像を示し、時にピアノで演奏しながらの解説に、参加者の皆さんも熱心に耳を傾けていました。昨今の世界情勢に触れ、今、キリスト教に基づいた音楽である《メサイア》を演奏することについての想いを語る場面も。最後には質疑応答で参加者とのコミュニケーションもあり、とても意義深いレクチャーとなりました。
ますます期待高まる埼玉での《メサイア》公演。是非この機会にお楽しみください。たくさんのご来場をお待ちしています!
バッハ・コレギウム・ジャパン ヘンデル《メサイア》―公演詳細ページはこちら
※は、事務局で追記しました。
公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団
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